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© Hikita Chisato

「悩む人」続・ねばならない。

2021.01.09

ねばならないの呪縛から抜け出すのは、そう簡単なことではなかった。山に籠もる気持ちでしばらく外出を控え、本当にしたいこと、自分の歩きたい道をじっくり考えようとしていたら、どんどん気持ちが滅入ってきた。ああそうだった、いくら考えても考えても答えが出ないから、忙しく動き回り悩みを振り払っていたのだ。突き詰めてもダメ、ごまかしてもダメ。堂々巡りの迷路だった。

そんな日々に光が差したのは、千葉の海辺から自宅までドライブしている時だった。二時間弱かかる移動中、いつものようにブツブツと繰り言を言うわたしに、夫がインタビューを始めたのだ。

「それってどういうこと?」「じゃあ、こうしたいの?」「あれ?話がずれてるよ。」「え?なんで?」

わたしは、「このまま何にも考えず今まで通りにしていたら、仕事は展開しないのではないか。そうすると、いつか仕事は減っていくのではないか。」「そうならないためには自分や写真に何か付加価値を付けないといけない。」「新しい技術、もしくは誰もしてないことをしないと!」などと思っていた。40歳になったって、やっぱり惑っているのだ。

ただ、それは「稼ぐ」ことが大前提の話で、夫は「もし稼げなくても写真を撮りたいの?」という、非常にシンプルな質問をしてくれた。嗚呼、ここにも「ねばならない」が深く深く染み付いていた。

写真で食べて行くためには、我慢しないといけない。カメラマンなら、これが出来ないといけない。社会人なら、こうあるはず。好きなことを好きなようにしてても、それは趣味だ。誰かに認められ、必要とされなければ意味がない。稼げないと、お金が発生しないと価値がない。

23歳から始めたカメラマン修行、最初に入ったブライダルの会社やスタジオで上司や先輩に叩き込まれたこと。カメラマンの助手時代、フリーランスでアシスタントをしていた時期に師匠たちから教わったこと、吸収したこと。それはわたしの武器でもああり、鎧だったのだけど、それらが厚くなればなるほど、自分が写真を選んだ気持ちが見えなくなっていたのだった。

「稼げなくても、写真が撮りたい。」そう答えたあと、涙が出てきた。誰の役に立たなくても、喜ばれなくても、認められなくても、写真が撮りたい。何かを表現するのではなく、レンズを通した光を、わたしが見たい。わたしが撮るものを、わたしが見たい。いつかその光景をまた見たいから、記録したい。

二度と振り返らない写真もあるかもしれない。けれど、失われるわたしの記憶代わりに写真がなりますように。そんな個人的な活動があって良い。

(初出:WEBマガジン「salitote」:2018)