INFO

© Hikita Chisato

掴んだ手、握られた手

2021.01.16

ペナン島のゲストハウスの写真が出てきた。大学の卒業旅行で、インドネシア、タイ、マレーシアを一人旅したときにPENTAXで撮った一枚。まだ使い慣れていなかったそのカメラで撮った写真は、現像すると全部にレンズフードが写り込んでいた。その時は呆然としたけれど、今となってはそれまでもが懐かしい。

深夜特急にも登場したゲストハウスだった。共同浴場、それも水シャワーしか出なかったゲストハウスだったけれど、わたしは気に入っていた。けれど、偶然同じ時期にペナンに来ていた友人カップルは、わたしの貧乏旅行の様子にギョッとしていた。誰もが聞いたことのある星付きホテルに泊まる彼らは、部屋にベッドが一つ空いているから、泊まっていいよとまで言ってくれた。たまたま日本に生まれたわたしたちは、ちょっと奮発すれば学生でもそんなホテルに泊まれた。もちろん彼らもH.I.Sで予約した格安パックだったし、ゲストハウスに泊まるわたしも、地元の人が訪れないような価格帯のレストランで食事をすることもあった。その選択ができることが特権なんだと、旅に出ると気が付く。

その後ペナンを満喫し、クアラルンプールに帰るとき、旅人らしい事件が起きた。スリにあったのだ。

安さ最優先のわたしが選んだのは、飛行機ではなく長距離バス、それも夜にクアラルンプールに到着する便だった。それまではそれなりに気をつけていたからか、怖い思いをしたことも、危険な目に合ったこともなかった。けれどわたしは、旅も終盤で気が緩んでいた。車内はそこそこ混み合っていたけれど、隣の席は空いていた。そこにカメラバッグを置き、日が暮れて薄暗くなった車内では、ついウトウトしてしまった。ふと何か気配を感じた。バッグに目をやると、座席と座席の間から黒く陽に焼けた手がにゅうっと伸びていて、今まさにカメラバッグの横ポケットから、そこに無防備に放り込んであった財布を抜こうとしていた。ハッと気がつき、大慌てで必死に手を掴む。けれどその手は、あっという間に貝のように引っ込んでしまった。身を乗り出して後部座席を見ると若い男がひとりだけ。しかし男は「知らないよ」といわんばかりのジェスチャーを見せシラを切る。

そのお金がないと日本に帰れない!返してよ!ふざけんな!

大声で泣き喚くわたし。少しだけマレー語が喋れたけれど、そういう時は母国語で伝えるしかないと思った。気が付いた運転手が取り成してくれたけれど、疑うんなら全身調べてみろよ!と、ニヤニヤ自信満々な態度。それを見て、きっと後方に仲間がいて、もうそちらに渡ってるんだなと悟った。それでもバスが終点に着くまで騒いだけれど、もちろん財布は返ってこなかった。

落ち込み動けなかったわたしの横を通る際、何人かの乗客が手に紙幣を握らせ、警察に行って相談しなさいと慰めてくれた。あの乗客たちに、そんな余裕があったのだろうか。コツコツと稼いだお金を節約するために、バスに乗っていたのではないだろうか。あの人たちは、飛行機の乗って異国を旅しようと思えたことがあっただろうか。そのときのことを思うとき、頭に浮かぶのは犯人の顔より、隙だらけで甘ったれた女子大生に、情けをかけてくれた人たちの優しさなのだった。