2021.01.09
ある時、「あの人に憧れているんだね。オシャレな人とお近づきになりたいんだ。」と夫から言われ、無性に腹が立った。素敵だなあと思う人に話しかけたあとのことだった。嫌な気分になるということは、図星なのかもしれない。ただこれは、人から言われるとムカムカする類の言葉、言い回しなのだと思う。
それに、素敵だな、好きだなって思う感情と憧れは少し違うとわたしは思うのだ。その人や、その人が置かれる状況に憧れに近い感情を持つとしても、素敵だなと思ったとしても、対等でいたいとどこかでわたしは思っている。なので同じ意味で、憧れていると言われるのも苦手だ。
思えばずっとそうだった。高校生くらいになると、今で言うスクールカーストほどではないけれど、目立つ子とそうでもない子を認識はするようになる。社会に出れば、学歴、所属する組織やポジション、地位や立場で測られることも増えてしまう。組織に所属しないフリーランスだって、クライアントやスポンサーにはどうしたって気を使ってしまう。それでもどこか、下請け業者扱いはしないで欲しい、プロの技術、わたしのことを必要だと思ってもらったからここにいるので、ある意味対等な関係のはず、と芯のところで思っている。
わたしにとってはオプションとなる要求を、少しずつサービスしなくなったのは、そんな意識を高めるためかもしれない。例えば、遠方出張時に車を出すこと。例えば、スタジオを取れない事情がある時に、カメラマンが無償で簡易スタジオセットを組むこと。
車で現場に行くことは機材の運搬上必要なことなのだけど、運転が好きかと聞かれるとNOと答える。何時間も運転しないといけない距離の場合、撮影とは別の疲労がたまるのだ。さらに、ある意味自分の部屋のようなテリトリーに人を乗せるのは、マイペースに生きたいわたしにとってどこか負担に感じるものなのである。道連れがいて楽しいことももちろんあるのだけれど、選択の自由を担保されない状況は、避けられるものなら避けたい。最近は「現地までは公共交通機関で動く方が負担は軽いです。現場でレンタカーを運転することは可能です。」と言うようにしている。
簡易スタジオセットとは、背景に使う長くて重いペーパーを持ち込み、たくさんのストロボをセットして撮影に臨むことだ。機材を揃えること、それらを保管する場所をキープすること、当日運搬する労力などもひっくるめ「カメラマンの仕事のうち」とみなされるのは辛いなぁと常々思っていた。20代のころからギャランティーが変わらない仕事もある。体力的に負担になるこのような撮影には、せめてアシスタントが欲しい。機材はレンタルとさせてもらい、アシスタント代はオプショナル料金として求めたいのだ。
でもこれらの要望、対価を求めると仕事が減るのではないか、そんな怖れが30代半ばまでずっとあった。実際、気付いたら今そんな仕事をしていないのだから、件数は減ったはずだ。ところが、心はとっても爽快なのである。あの怖れは消えている。手放すときは怖くても、持たなくなると、失う怖さもなくなる。「出来ない」と宣言することは、意外にプラスに働くこともある。
(初出:WEBマガジン「salitote」:2018)