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© Hikita Chisato

「悩む人」時間泥棒

2021.01.09

これまでにいったい幾度「もう絶対、遅刻はしない。」と誓ってきただろうか。待たせた相手から激怒されたこともあるし、友達や仕事も失ってきたろうと思う。時間に遅れたことに負い目を感じれば、その後の振る舞いにも影響が出る。よほど太い神経がなければ、何も気にせずに普段通りのパフォーマンスをする、なんて出来ない。自分の体調管理以上に、日々の「約束を守る」行為はフリーランスにとっても最重要項目で、逆にこれさえ出来れば他のことは大目にみられたりもする。

思わず「時間を守れない 病気」「時間に遅れる 対策」「遅刻魔 変える」などというワードを検索する。 「例えどんなに腕があっても、どんなに人柄が良くとも、時間を守れない奴とは仕事しない。」「遅刻をするということは、人から時間を奪うことです。相手を大事にしていないということです。」「イライラするし、バカにされているのかと思う。」「時間厳守は社会人の基本中の基本。」 そこには、冷や汗と涙が湧き出るような言葉が並ぶ。でもその中で、一際心に刺さったのはこんな文章だった。

「自分に罪悪感がある人が、罰を受けるために敢えて人から怒られることをする。ごめんなさい、すみませんと謝らないといけない状況になるよう自ら行動する。」というものだ。自分の潜在意識に「罪悪感」があって、やっぱりわたしはダメな人間で罰を受けないといけない。怒られ、呆れられ、信用してもらえない人間なんだ、そんな風に心のどこかで思っているということだ。

そんなアホな、30分前に行動すれば済むことじゃないか。何か交通事情に遅れがあったとしてもそれでも15分前に到着するつもりで計算しろよ。そう言われたら終わりだけれど、早め早めを心がけ、この時間に出発すればまず大丈夫と計算していても、到着直前にトラブルが起きたりする。出発前にも、やらなくていいことをどうしてもしたくなったり(病的に洗濯物を畳みたくなる、など。)、計算上はきっと間に合うからと急に寄り道したり。また、一度遅刻したら癖のようになり、重ねて遅刻するという悪循環は、「まだまだ罰を受ける必要がある」という恐ろしい潜在意識のなすものではないかと思うと、ふっと腑に落ちるものがあった。

これまでにこのコラムでも書いたが、「お金を使うこと」への罪悪感がわたしにはまずある。加えてもしかしたら、子どもが欲しいという気持ちの根底にも、子育てという大変な仕事をしていない、苦労していないことへの「罪悪感」もあるかもしれない。わたしの人生において常につきまとうこの言葉。

「ほら。」と自分で自分に暗示をかけるような罪悪感とどうにかしてさよならをしたい。自分は信用してもらえる人だと信じたい。そうしてやっと、時間を守れる人になれる気がするのだが。

この文章は約一か月前に書き、それからは余裕のあるタイムスケジュールを毎朝確認し、時間になったらやっていたことをシャットダウンする気持ちで止め、待ち合わせ場所に向かう訓練をした。小学生がするようなことだけど、成功体験を重ね矯正を図っている。「もう絶対、遅刻はしない。」とここで改めて誓いたい。

(初出:WEBマガジン「salitote」:2017)