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© Hikita Chisato

「悩む人」怒るということ

2021.01.09

喜怒哀楽とおおざっぱに分けられることのある感情。その中でも「怒り」に関しては、負のイメージを持たれやすい気がする。「アンガーマネジメント」という言葉もたまに耳にする。ただ蓋をすれば良いとは思わないけれど、怒ることで一番傷付くのは自分自身じゃないかな、そんなことをよく感じる。

わたしは穏やかに見られることが多い。だけどほんとはそんなことなくて、むしろ「え、そこで?」と驚かれるくらい感情的な面があるのだ。それはどちらかというと悪いギャップ。思いの外ショックを受けるのか、そのあと距離を置かれてしまうこともある。

起きたことに対し何かストレスを感じた、それを「怒り」ながら伝えているのだけれど、大抵はもう終わっているので改善出来ない。ただ怒るだけでは建設的ではないし、かといって謝罪を求めているわけでもなかったりする。結局、同じことが起きないようにという着地点に落ち着くけれど、本当は違和感を感じたその時、冷静に気持ちを伝えられたらなと思う。

些細なことなら、飲み込むことが出来ればそれもいいのかもしれない。ただ、伝わらないからと諦めることに馴れると、それは習慣となり、本当に大事な時にも感情を出せなくなる。家庭内であれば、それは突然の離婚につながるかもしれない。社会の中でも、気がついたら戦争が始まっていた!なんて事態は「諦め」や「馴れ」が原因ではないかと思う。

とは言え、「怒り」の種は実は、外ではなく内側にあることが多い。同じ出来事が起きても、自らに余裕があるかないかで生まれる感情が変わる。この余裕、言い換えると機嫌の良い状態を保つことが最大のポイントなのだ。自分は遅刻魔なくせに、人が遅刻してくることにイライラするときがある。このイライラは、さっさと先に行っちゃうなり、暖かい心地の良い場所で待つなりすれば収まる。締め切りのある原稿を、待っている間に仕上げようとすれば、余裕どころか「まだ来ないで!」と願うだろうし。

理不尽なことだらけの世界だけれど、感情に溺れすぎないよう気をつけている。喜び、哀しみ、楽しさ、できるだけそちらを向いて写真を撮っている。実は怒りをパワーにして動き出すことも多々あるのだけれど、長く続けるうちにいつしか自分が疲弊していることに気付く。レンズを微かな光の方向に向け、映し出された「写真」では怒りを昇華させていたいと願う。

(初出:WEBマガジン「salitote」:2016)