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© Hikita Chisato

「悩む人」うれしくないシンクロ

2021.01.09

先日、「井戸を掘る」という興味深いタイトルのイベントに参加した。人はそれぞれ、各々の場所で自分の井戸を掘って行けば良い。それは大変孤独な作業だ。けれどある時、自分の井戸が水脈を通じ、誰かの井戸とつながっていることに気付くかもしれない。そんな思いが込められたタイトル。

仲間が存在する可能性への希望を含め、自身の活動や思いをうまく言葉にする主催者のセンスに感心していたら、イベント会場のすぐ側で商店を営む年上の男性が、「村上春樹が言っていた言葉ですね。そこから取ったの?」とおっしゃった。

主催者は村上さんがそんなことを言っていたとは知らなかったから、偶然の産物だ。この出来事がわたしに教えてくれたことは、人が思いつくことの大半は、既に誰かも考えているかもしれない、発見したと思ったことも、無意識に誰かから影響を受けているかもしれないという、最初に受けた感動と真逆の事実だった。絞り出した言葉も誰かの井戸と繋がっていたとしたら、一人ではなかった!と喜べるだろうか。この場合むしろ、「なんだ、そこにもいたのか。」とガッカリしたかもしれない。

知らないままならオリジナルと言えるのだけど、ただ無知なだけだとしたら怖い。ほとんどのことは歴史上に、あるいは地球の裏側にはすでに存在しているならば、人がオリジナリティを見付けるのは、一生かけてもほぼ不可能なのだろうか。

写真を始めた当初からよく言われてきたのは、良い写真をたくさん見なさいということだった。それから、写真だけでなく、絵も映画も演劇も見るように。いろんな人に会って話を聞くのも良いし、本を読んだり旅行に行くことも勧められた。様々な人生経験を積め、それを全て作品に生かせということだと思う。

ただ、いつ頃だっただろうか、人の写真は見ない方がいいんじゃないかと思ったこともあった。オリジナリティを追求するなら、他の写真家から受ける影響を出来るだけ避けたい。

バンドマンは、最初好きなバンドの音楽をコピーすることから始めることが多い。職人は師匠からひたすら技術を盗もうとするだろうし、料理人になろうとレストランで修行を始めたなら、その店のシェフの味に近付ける努力をする。

もしオリジナルの発見が最初っから不可能なのであれば、ずっとコピーを続けていれば良いのではないだろうか。あれもこれもと良いとこ取りし、発展させるという考えもある。だけど、もしその人が作家と名乗るつもりであれば、いつかは自分だけの作品を生み出していく必要があるだろう。作家としての自覚があれば、コピーは「真似をしているだけ」という罪の意識が生まれるから。

これまで見てきたことを生かすのか、捨てるのかはその人次第。経験を消化し、自分のフィルターを通しオリジナルなモノを作れる自信ができたら、他の人の作品を素直に見られるようになるのだろうか。

コピーはしたくない、でもオリジナルと言える自信はわたしにはまだない。

(初出:WEBマガジン「salitote」:2018)